神仏に祈るということ


 4月30日の日経夕刊の市川亀次郎氏のコラム「奇跡の起こし方」が非常に秀逸な内容だったので、備忘録的にメモっておきます。

 (前略)では、神聖を穢すものは何か。何が聖なる地を穢すのか。それは、われわれが発する思いである。
 合格しますように。もっと儲かりますように。恋人が現れますように。人は尊い存在に向かって手を合わせ、願い事を心に祈る。何かにすがろうとする人間なら誰しもが持っている弱さ。その弱さを否定はしない。しかしながら、いくら神に祈ったからといって、神がその願いをかなえることはない。あれがほしい、あれがしたい、ああなりたい。すべてが人間の飽くなき欲心。裏を返せば、欲とは現状への不満の表れである。欲望を口にすることは、すなわち、神に不平不満をぶつけているのと同じこと。
 足るを知る。生かされていることの奇跡を、人はまず思い知るべきである。有り難いことが有るから、有り難い。そこに思いが至れば、大いなる存在に対しては、ただただ感謝の念しか湧き起こらないはずだ。ありがとうございます。感謝した上で、決意する。「こうなりたい」ではなく、「こうなるんだ」。自分がはっきり決意することで、やるべきことが見えてくる。そして、そこから努力が生まれる。努力はいつか必ず実る。この過程に奇跡じみたことは一切ない。
 人事を尽くさずに天命を待つから不安になる。人事を尽くしていれば泰然自若、何も恐れることはない。奇跡を頼ろうとする他力依存の心の持ち主に神が味方することはない。今の自分が精いっぱいできることをやる。必死で物事に取り組むその一生懸命な姿勢が、時として奇跡を起こすのである。


 全く同感です。僕自身のここ数年における最も大きな精神的な成長は、このような境地に達したことに尽きます。「祈る」のではなく「感謝を捧げる」、これを実践し始めてから(現世利益的な言い方で嫌ですが)万事が快調に進むようになったと感じています。コラムの前半では、パワースポットを例に挙げて近頃のスピリチュアルブームを批判されておりますが、これもおっしゃる通りで、パワースポット(笑)とやらに何時間も並ぶ位ならば、近所の神社で毎日感謝を捧げる方が遥かに有意義な行為ですね。